はじめに

旧来の「専業主婦型」の性別役割分担が、生命の再生産を営む家族の内部で、女性を家事労働の専門的な担い手、男性を稼得労働の専門的な担い手とするものであったのにたいして、「新型」の性別役割分担では、女性が、家事労働に加えて家計補助的な稼得労働をも担うようになった。

しかし、性別役割分担が「新型」になっても、労働市場での女性差別 (注1) や、高齢化社会における介護労働の負担の女性への偏り (注2) が指摘され、また男性の側でも、「会社人間」化によって職場生活以外の生活領域では自立できず、就労期には休日の「粗大ゴミ」、定年後は「産業廃棄物」、「ぬれ落ち葉」と化している状況があることに変わりはない。

本稿では、賃労働の形態にある生産的労働との対比によって家事労働の特質を把握し、それに基づいて性別役割分担の成立と変容の背景を明らかにする。

I. 消費費用の観点から見た家事労働の特質

1) 生産と消費

およそ生命体は、自然から生命活動に必要な自然素材を取り入れて消費し、その結果生じる不要物を自然に返すという物質代謝を行う。人間以外の生物は、自己の有機的身体や外的環境を所与の自然として受け取る。すなわち、自己の有機的身体に適合的なものだけをそのまま取得する。これに対して人間は、自然素材がそのままでは欲求の充足に役立たない場合でも、その素材の形態を変化させて欲求充足に役立つものに変え、取得することができる。人間自身の有機的身体から独立した自然素材の形態を変化させるこの過程が労働過程であり、過程の成果つまり形態を変化させられた自然素材が生産物である。また、同じ過程を生産物の取得過程として見れば、それは生産過程である。

それ自体としては欲求の対象にならない物を労働の対象にできるということは、直接的欲求から自由に生産できるということであり、労働のこのような性格の発展の結果、生産は次第に普遍的なものとなり、他人のための生産、すなわちなんらかの社会的欲求の充足をめざす生産が行われるようになる。

生産過程で労働者は、自然素材を形態変化させ、この変化を制御するために、自己の肉体的・精神的諸力を支出しなければならない。労働者は、労働力のこの支出によって、自己の外部にある自然を変化させると同時に、自己自身の自然=天性(Natur)を変化させるのである。

これに対して、消費 (注3) とは、自然素材や生産物を欲求の対象として、有機的身体に同化させたり生活環境に組み入れたりすることである (注4) 。消費を通じて、人間は再び生産の主体として生産過程に復帰する。個々の消費行為の主観的目的は消費主体の欲求の直接的充足であり、そのなかには純然たる享楽を目的とするものもあるけれども、消費過程総体の客観的帰結は、有機的身体の形成・再生・維持である。

2) 消費費用としての家事労働

以上の生産と消費との一般的区別を踏まえて、賃労働の形態にある生産的労働と家事労働とを対比しよう。

賃労働の形態にある生産的労働も、もちろん、生産物を産出する労働、生活手段ないし生産手段の生産を目的とする労働である。だがそれは、まず、生産物を商品として生産する労働であるという点で、生産的労働一般から区別される。生産物を生産する労働が、抽象的・人間的労働の対象化として、価値という形態を受け取る。しかし、賃労働の形態にある生産的労働の決定的な独自性は、ここでは労働者が生産の諸条件に対して他人のものに対する様態で関わる点にある。この労働は、資本の指揮のもとに行われる、剰余価値を生産する資本の労働であり、この労働によって資本-賃労働関係が再生産されるのである。

生産的労働は、人間の肉体的・精神的諸力の支出としては、生産物を獲得するための本源的費用、生産費用である (注5) 。同様に家事労働は、同じく人間の肉体的・精神的諸力の支出としては、消費のための本源的費用、すなわち消費費用 (注6) である。つまり消費のための肉体的・精神的諸力の支出である。食物を摂取するための咀嚼に肉体的・精神的諸力を支出するのは消費主体自身であるほかないように、多くの場合、消費費用は消費主体が自ら負担するしかないが、一部は他人の人間的諸力の支出による肩代わりが可能であり、この部分が家事労働やサーヴィス労働となるのである。

そこで消費主体は、消費費用をまかなうのに、(1)自らの人間的諸力を支出する、(2)「無償」で他人の人間的諸力の支出に肩代わりさせる、(3)貨幣で他人のサーヴィスを購入する、という三つの方法を組み合わせることになる。なお、「無償」の肩代わりと言っても、諸力を支出する者の生活手段を、肩代わりしてもらう側が調達する場合には、厳密にいえば無償ではない。

また、生産的労働が、人間が自然を目的意識的に形態変化させる過程として、自然と人間との物質代謝の第1段階であるのに対して、家事労働は、生産的労働の成果である生産物を有機的身体に同化させたり生活環境に組み入れたりするために、消費主体に合わせた最終調整をする過程、すなわち物質代謝の第2段階である。

以上のように、賃労働の形態にある生産的労働と家事労働とは、どちらも人間の肉体的・精神的諸力の支出であり、どちらも物質代謝を媒介する目的意識的な活動であるが、前者が、物質代謝のうち、生産物の生産という側面を媒介するのに対して、後者は、生活手段の消費による人間の生産の側面を媒介するという点に区別がある。

生産物の生産のための人間的諸力の支出である生産的労働のうち、資本に包摂された賃労働の形態をとる労働は、私的な労働だから、それが生産する使用価値が社会的な欲求を満たすものであることを実証しなければならない。しかしそのためにはこの労働は、抽象的労働の側面において価値を形成し (注7) 、それを価格として表現したうえで、この価格を実現しなければならない。こうしたプロセスを経てようやく、それが社会的に有用な労働力支出であったことが確認されるのである。

これに対して、消費のために必要な肉体的・精神的諸力の支出は、自分や他人の欲求をその個別具体的な形態のまま直接に充足する。例えば料理のように、物的な生産物を生産する場合でも、交換に媒介されることなく直接に消費主体の享受の対象となる (注8) 。この労働は、他人の欲求を満たすというかぎりでは「社会的」な性格をもつと言いうるが、ここで言う「社会」とは、個々独立の私的家族(家計)の内部のみで、その成員たちが形成する直接無媒介の排他 的関係でしかない。つまり、家事労働の「社会性」は、私的生産者を媒介して社会的分業の有機的編成を成立させるような社会性ではないのである。

このように、消費費用としての労働は、生産費用としての労働とは異なり、社会的労働であることを実証する必要はないのであり、価値という形態を取る必要がない。だから家事労働は価値を生まないのである。労働が家事労働として営まれるかぎり、資本の指揮下に入ることもなく、剰余価値も資本-賃労働関係も生産しない。

「家事労働」のもつ「社会性」は私的家族という直接無媒介の排他的関係に対応したものでしかないから、家事労働をめぐる人間関係は、全体社会に対しては、私的かつ周辺的な関係として現れることになる。そこで、家事労働の家族成員間での分担のあり方は、彼らの私事に属する事柄、すなわち家庭における彼らの私的な交流、習慣、情緒、「家族愛」などに関わる問題とみなされ、公の場で取り上げられることがない状況が続いてきた。

近年ようやく家事労働のあり方が問題にされ、論じられるようになってきたのは、のちに見るように、賃労働の側の変化が家事労働のあり方を大きく変えてきたことの結果であった。

3) 賃金と消費費用

労働力の再生産とは人間的諸力総体の再生産であり、賃金は人間的諸力総体の再生産費によって規定される。人間的諸力は生産費用(生産的労働)と消費費用(家事労働)という二つの形態で支出されるのだから、消費費用として支出される諸力の再生産も、賃金で買われる生活手段の消費を通じて行われる。

消費費用としての人間的諸力の支出は人間の正常な生命活動の不可欠の一部である。だが、社会にはつねに、ある割合で、この消費費用を自分で負担できない成員、すなわち他の成員による介助(ケア)を要する「要介助者」 (注9) が存在する。それは具体的には、まだ消費費用支出のすべを充分には身につけていない子どもや、疾病・障害・加齢によって消費費用の直接支出ができなくなった人々など (注10) である。これらの人々の消費費用は、社会全体が負担する仕組みが成立していないかぎり、彼らが属する家族の他の成員の負担となる。社会的平均的に見れば、どの労働者も一生のあいだに、自己が維持する家計のなかに要介助者をある比率で抱えるのだから、労働力の総価値は、要介助者のための消費費用をも含んだ人間的諸力の再生産の費用によって規定される。要介助者のためのこの消費費用は、要介助者の家族の誰かが自分の諸力を支出するという形態で、あるいは、「扶養義務者」が貨幣を支出して家庭外の他人の諸力の支出を調達するという形態でまかなわれる。

II. 性別役割分担の成立と変容

1) 資本-賃労働関係と労働者の生活様式

資本の本源的蓄積の過程は、共同体的諸関係または小経営的生産様式では結合していた生産手段と労働する諸個人とを切り離すことによって、労働諸条件をもたない労働する諸個人を、労働力の商品としての販売によって生活する賃労働者に転化させる。他方、集積された生産手段および生活手段にほかならない資本は、労働力の購買を通じて多数の労働者を自己の支配のもとに包摂する。この包摂の進展とともに、かつて個々の家庭に付属していた小規模の作業場は、家庭から分離されて大規模な工場へと転化して行く。

かつて、衣類などの工業生産物も家内工業によって自給する、資本主義以前の家父長制的な農民家族は、生産手段を所有しており、就労可能なすべての家族成員が生産活動に参加していた。そこでは家族それ自体が、消費機能だけでなく生産機能をももつ生産組織であり、生産手段を含む財産の継承が行われた。またそれゆえに、この家族は、生産・消費活動に必要な人員として、非血縁者(下人、召し使い)をふくむ場合もあり、概してその規模は大きかった。

家父長制家族からの近代ブルジョア家族への移行に伴って、職住分離という決定的な変化が生じた。生産機能が家庭から分離して資本主義的経営体に集中すると、生産機能を失った家族の基本的機能は消費活動となり、所有され継承される財産にはもはや生産手段が含まれていない。家族は、一組の夫婦を核とし、その子を包含する単婚小家族が一般的となる。

ここで成立してくる労働者家族は、本質的に、消費単位である。労働者は生産手段を所有していないから、生産手段である財産の保全・継承はもはや問題にならない。かつては財産としての生産手段が、男性による女性への家父長制的な抑圧の手段であり、その保全・継承がそうした抑圧の動機でもあったが、労働者家族にあっては、もはやそのような手段も動機も存在しない。経済的側面から見た家族の基本機能は、家父長制家族の場合には生産、消費、そして財産としての生産手段の保全・継承の三つであったのに対して、労働者家族の場合には消費とそれを通じての労働力の再生産に絞り込まれている。

このように、資本の本源的蓄積によって成立した資本-賃労働関係は、労働者に、労働ファンド=生活手段ファンドを労働力の販売によって取得することを余儀なくさせることによって、彼らの生活様式をも基本的に規定するのである。

2) 女性の賃労働者化

労働力をもっており、それを商品として販売しうるという点では、女性と男性との差異はない。じっさい、産業革命の開始後しばらくは、女性の賃労働者化が進み、女性・児童労働 が優位を占めた (注11) (注12) 。しかし資本は、搾取対象としてはすべての労働者を同等に扱う一方で、労働力を安価に買い入れるために、可能なあらゆる条件を利用することによって、労働者階級のなかにさまざまな被差別集団を作り出す。女性、児童、外国人労働者、障害者などがそれである。これらの人々は、労働市場への参入が制限されているために、「一般労働者」 (注13) よりも劣悪な条件を受容せざるをえない。資本は、労働市場が逼迫して「一般労働者」の賃金が資本の許容水準を超えて上昇する場合や、逆に景気の悪化から賃金コストの節減が必要となった場合に、「一般労働者」をこれら被差別集団に属するもっと安価な労働者に置き換える。これによって「一般労働者」の労働諸条件の維持・改善も困難になるのであり、労働者階級内部の被差別集団は労働者全般の労働条件の切り下げに利用されているのである (注14)

マルクスは「機械経営が労働者に及ぼす直接的影響 (注15) で、第1に「資本による補助労働力の取得、婦人・児童労働 (注16) を取り上げ、機械の導入という労働過程の技術的変革が、筋力のない女性や児童を賃労働者に転化することを指摘しているが、この転化は、機械の利用それ自体から生じるものではなく、資本主義的生産様式のもとでのそれから生じるものである。資本は、産業革命という資本主義の歴史的発展の特殊な一局面においてのみならず、いつでも可能かつ必要な場合、女性や児童の賃労働者への転化を推し進めてきた。それによって資本は、労働力の価値を分割し、労働力売買をめぐる法律関係を自己に有利に変革し、労働者の抵抗を弱化させ、これらすべてを通じて、低賃金で解雇の容易な労働力を確保したのである (注17) 。大工業の確立以降、労働過程の技術的変革は、度々このような作用を労働者階級に及ぼしたのである。

3) 「主婦業」の成立

しかし、女性の賃労働者化には、一時、ブレーキがかかった。女性・児童労働の広がりによって旧来の家族関係の解体が進み、その結果、労働力の再生産が困難となり、それに伴って社会統制の乱れが生じた。すでに述べた消費費用の観点から見れば、家族の全員が自分の人間的諸力を賃労働の形態で支出せざるをえないために、消費には自らの人間的諸力を支出することができず、代理人を雇って諸力の支出を肩代わりさせるか、既製品の買い入れで補うしかなくなる。「家庭労働の支出の減少には貨幣支出の増加が対応する。したがって労働者家族の生産費用は増大し、それが収入の増加分を相殺してしまう。その上、生活手段の消費や調達にさいしての節約や合目的性は不可能になる。 (注18) その結果として、たとえば、幼少期における労働者児童の死亡率が高まるが、「この高い死亡率の原因は、特に母親の家庭外就業、それに起因する子供の放任と虐待、ことに不適当な食物、食物の不足、阿片剤を飲ませることなどであり、そのうえに、自分の子供にたいする母親の不自然な疎隔。その結果としてわざと食物をあてがわなかったり有毒物を与えたりすることが加わる」と、政府の医事調査において報告されるにいたる。このような事態に直面して、女性・児童労働の制限によって労働力の濫用を規制し、労働者家族の再建を図るために工場法が導入されたのである (注19)

工場法の制定によって「専業主婦型」性別役割分担の形成が進められた。この過程では、女性の労働者化もこの型の役割分担と矛盾しない形態をとった。すなわち若年・未婚の女性労働力の利用である。それは、労働者を「基幹的」労働力と「周辺的」労働力に区分し、必要に応じ両者を入れ替えるという、資本蓄積の一般的法則の具体的な表れであり、この労働力の区分を性差にもとづいて行うことにより、男性労働者を「終身雇用」の「基幹的」労働力と位置づける一方、女性の若年退職を「慣行」として定着させることによって女性を雇用期間が短い流動的な「周辺的」労働力と位置づけ、景気動向に応じた雇用調整の主要な対象としたり、合理化のために男性の採用を減らして女性の比重を高めたり、といった対応がとられるようになったのである。

若年退職が「慣行」として定着して、一定の年齢に達すると賃労働から排除され、あるいは不充分な賃金しか受け取れなくなり、労働力の販売によっては平均的な生活水準を維持できなくなると、女性たちは他に生計手段を求めた。その一つが、「主婦」となって男性労働者の消費費用の一部を肩代わりし、代わりに男性の賃金のなかから生活費用を入手するという方法であった (注20) 。ここに、生計の手段としてのジェンダー・ロールが形成され、「主婦業」が成立したのである。 労働者階級の女性は、資本によって労働市場への参入を制約されたために、男性労働者の労働力販売の補助者として生計を保つことを余儀なくされ、これに対応して男性労働者の側も、賃金は家族全体を養える水準であるべきだという「家族賃金」観念を受容して行くことになる (注21)

こうして、旧来の家父長的意識・習俗とあいまって、女性の若年退職の「慣行」とともに、家事労働形態の消費費用は女性が負担すべきものという意識と「慣行」が再形成されることになった。

他方、男性労働者は、家事労働形態での消費費用の負担から解放される一方で、過労死を生むほどの長時間・過密労働に拘束されてきた (注22) 。このように、女性の賃労働への参入が制限されているという事態と、男性労働者が長時間・過密労働によって時間的・体力的・精神的余裕を奪われ、また「競争的人生 (注23) というかたちで企業社会に全人格的に包摂されているという事態が相互規定的に作用しているのである。

大沢真理氏は、日本の男性の「会社人間化」について、妻の収入の期待値が低い状況では、男性が「収入労働」の専らの担い手ないしは主要な担い手になることは、家計にとって合理的な戦略だ、と指摘された (注24) が、これは、日本に限らず、既婚女性労働力が強く要求されていない、「主婦パート」が導入される以前の状況のもとでは広く一般的に認めうることであろう。

性別役割分担の形成や維持に旧来の家父長的な意識が作用しているとしても、それは、資本の振る舞いのもとでの経済的必然性の作用の触媒として働くものとみるべきであろう。だから、性別役割分担とは、資本が賃労働への女性の参入を制限することによって生じる、賃労働と家事労働形態の消費費用との負担の不均等な配分にほかならないのである。

このような性別役割分担が完全に行われている家族では、成人男性労働者が、家族を代表する人格とみなされる傾向が強い。その性質からすれば一人の人間が行う正常な生命活動の二つの契機であるはずのものが、ここでは、二人の人間に分かたれて分担されているのであるが、このうち、社会的承認 (注25) の「表舞台」に登場するのは、男性が担う賃労働の側のみだからである。女性が行う消費費用支出(家事労働)でさえも、あたかも男性自身が担っているかのようにみなされて「シャドウ化」するのである。

4) 「主婦パート」の拡大

中高年・既婚の女性労働力が「主婦パート」として労働市場に登場するのも、さらに一層「周辺的」な労働力の形成にほかならない。資本がこのような新たな「周辺的」労働力を必要とした理由は時と所によりさまざまである。例えば、最も早く「パート」が導入されたイギリスでは、第二次大戦中の男性労働力の不足が原因であったし、戦後日本の場合には、晩婚化・少子化・高学歴化による若年労働力の不足や不況期の雇用の合理化などがその理由に挙げられる。しかし、導入の直接のきっかけがなんであれ、それが、低賃金で解雇の容易な労働力を確保するための一つの手段であることに変わりはない (注26)

日本の場合には、資本にとっての「主婦パート」採用のメリットとして以下の諸点を挙げることができる。(1)低賃金。中途退職して年功賃金体系から外れた女性は、若年者を下回る賃金で雇用できる。(2)常用化の要求の低さ。解雇の容易な臨時雇用の地位に置き続けることができる。(3)職業経験を有する者が多いから、教育・養成の面でも低コストである (注27)

また「主婦パート」は、既婚女性が「フルタイマー化」した場合と違って、労働者家族全体の消費費用の人間的諸力の形態での支出は主として妻が担うという関係は維持されうる。そのため、労働力再生産への攪乱的影響が少ないうえに、男性労働者の消費費用をその妻が肩代わりしてくれるので、引き続き企業への男性労働者の全面的服属を期待できる点でも資本に有利である。

これにさらに、既に指摘した、被差別集団の形成による労働者全般の労働条件切下げというメリットが加わるのである。

以上が、資本の側から見た、言い換えれば生産様式に規定された、「主婦パート」導入の必要性であるが、労働者家族の側から見た、言い換えれば生活様式に規定された、「主婦パート」導入の必要性は、生活水準の上昇に伴う消費の高度化の結果、家計支出が増大するので、女性の賃労働参入の拡大を図らざるをえないという事情である。生活水準が上昇するのは、一方では、技術革新と労働力配置のフレキシブル化に対応しうる労働力の養成のために一般的教育水準が上昇するからであり、他方では、より高い強度で労働を引き出す新技術が次々と一般化することによって生じる、労働力のより速い消耗を償うために、生活手段やサーヴィスの必要が質・量ともに増大せざるをえないからである (注28)

5) 「主婦パート」を可能にした諸条件

それでは、なにが「主婦パート」を可能にしたのであろうか。

大工業は、結合労働を形成し労働を簡単化することによって、あらゆる資質をもった人間が生産に参加できる条件を生み出した。個々の労働者の資質の差異は集団の中で相殺され、各集団ごとの労働は平均的・標準的労働として作用する。例えば、安川寿之輔氏は、この点を次のように指摘する。「技術革新による機械をともなう分業が進展すると、労働の工程が多数の部品の供給と組み立てからなる多くの労働過程に分割されることになり、その結果、個々の労働者の筋力や能力の違い、熟練の違いが製品に反映されなくなり、誰がやっても同じ製品がそれも短時間のうちに大量の生産が可能となってくる。 (注29)

これは、女性の労働力についてその資質に問題があるかのように主張してきた資本の論理を根底から掘り崩す事態である。たしかに女性労働者は平均的には男性労働者と比較して筋力が劣る。特に大工業の確立以前は、教育や訓練を通じて後天的に形成される筋力や技能の両性間の格差は、無視できないものだった。だが、結合労働の形成と労働の簡単化は、そのような性差を、男性労働者間にもある個体差以上の意味を持たないものにするだけでなく、さらには性差か個体差かという問題そのものを解消する。実際の生産活動において、個々の労働者の資質の違いは次第に問題にならないものとなってきているのである。このかぎりで、結合労働と簡単労働とは、女性を賃金労働者化しその賃労働への参加を可能にする条件である。ME化に代表される現代の技術革新も、結合労働の形成と労働の簡単化を促進した。「主婦パート」導入の基礎にはこうした技術的条件があった。

商品としての生活手段や民間サーヴィスの利用、「社会的共同消費手段」や公共サーヴィスの利用、などによって、家事労働形態の消費費用が社会化されたことも「主婦パート」の導入を可能にした。さきに、「主婦パート」は性別役割分担を大きく損ねるものではないことを指摘したが、しかしそれは、妻たる労働者の「二重負担」を前提してのことであった。「主婦」労働者は、「家庭責任は女性が担う」という、性別役割分担を内面化した意識をもつとはいえ、かつての専業主婦なみの家事労働をこなすことは、現実問題として困難である。そこで、家庭のなかでの家事労働を減らすような家事労働の社会化が必要となるのである。

6) 「主婦パート」の社会的意義

「主婦パート」導入を可能にした以上の諸条件は、労働生産性の上昇が必要労働時間の短縮による自由時間の拡大の潜在的な可能性を生みだしている事実 (注30) とあいまって、以下のように、新しい両性関係の実現の基盤の一部を形成する。

両性が性差に関わりなく生産に対等に参加することを可能にする物質的条件を結合労働と労働の簡単化が作り出したにもかかわらず、企業社会には依然として女性差別が存続している事実は、この女性差別が労働の「質的差異」に関わるものではないことを端的に示している。対等な参加の実現を妨げているのは、資本の差別的処遇である。結合労働の構成要素として使用価値になんの差異もない労働力に対して、性差による処遇の格差を設けることによって、労働力の売り手の間の競争を激化させ、労働コスト全般を切り下げようとする資本の振る舞いこそが差別を存続させているものの正体である。

労働の簡単化と結合労働の形成によって、生産現場に女性が進出し男性とともに肩を並べて働くようになることによって、性差に対する誤解や偏見が解消する機会は増大している。それによって、差別存続の真の理由について、両性の労働者の目が開かれる可能性も高まらないでいない。

「家事労働」の社会化は、各家庭が直接負担すべき家事労働を減らすことによって、偏った女性の負担を減らすだけでなく、軽減された家事労働に男性が参加することを容易にする。しかし、ここでもその実現の鍵は、男性が資本のもとでの長時間・過密労働から実際に解放されるかどうかにかかっている。

7) 性別役割分担と労働に対する資本の支配

伊田広行氏の「シングル単位」論 (注31) は、性別役割分担の問題が家族の意識、心構えの問題ではなく、制度の問題であると指摘した点で正しい。じっさい、資本主義社会では「カップル」化つまり結婚は、性別役割分担を強制する作用を持つ。男女間の賃金格差が大きい場合には、「会社人間+家事女」のカップルが有利である。さらに税制度における配偶者控除、社会保険制度における被扶養者の拠出免除などがこの傾向に拍車をかける。また、男性の賃金を構成する諸手当の仕組みも性別役割分担を助長するものとなっている。差別賃金と税制度・社会保障制度とがあいまって性別役割分担が再生産されているのである (注32) 。こうした「専業主婦優遇」の諸制度を基礎としながら、所得税の課税最低限の引き上げや控除対象配偶者の所得の上限のひき上げ、配偶者特別控除の導入により、現行諸制度はパート型に有利なものへと次第に変更されてきている。

けれども、「シングル単位」論が賃金支払いの仕組みや社会保障制度のあり方の問題点の指摘にとどまるなら、現存する性差別の克服の議論としては不充分なものに終わるであろう。

伊田氏の提唱する「シングル単位化」の「中核的要素」は、「基本的に男女ともが、パートナーを考慮に入れず自分独りで収入労働も家事も余暇も行うこと、それができるような一日を単位とする労働時間短縮、現実的には女性が「外で」働き続けられるような各種保障、男性型年功賃金システム全体の見直し、女性役割を社会的に行う意味をもつ社会保障制度の画期的充実(家族任せから個人単位の福祉へ。具体例としては家族介護者の福祉労働者化、育児介護休業・時短) (注33) というものである。

これらのうちで、年功賃金の見直しやジェンダー・ロール(「女性役割」)の社会化は、いま資本に有利なかたちで実現されつつある。年功賃金の見直しは、女性の処遇面での一層の周辺化と男女を問わない不安定就労化を進めるような仕方で一部着手されているし (注34) 、ジェンダー・ロールの社会化も、労働者とその家族に私的に負担させることが難しくなってきたことに対応して、資本としても社会化を図らざるをえなくなっている。ただしそれらは、できる限り資本の負担を低く抑えるような仕方で薦められようとしている。すなわち、一つは、育児介護休業や介護保険制度などに見られるように、従来どおり家族介護者に負担を求めつつ、これへの「公的」支援を強化する方法であって、この場合、賃金保障の率を極力下げる、受益者負担を強調し公費負担を抑えるなどの工夫がこらされる。もう一つは、労働形態の消費費用の市場化・公共化を、性別職域分離を維持するような仕方で進めることである。いわゆる「男性職」を設けて女性のこの分野への参入を制限し、看護・介護・育児などの、社会化された消費費用の分野で、女性労働力を低賃金で利用しようとしている (注35)

このような事態は、労働力の再生産費を縮減して剰余価値を増大させようとする資本の本性から生じるものである。だから、性差別の真の克服には資本-賃労働関係そのものの見直しが必要なのであって、それは、労働生産性の上昇が諸個人の自由な時間の拡大をもたらしうるか、それとも剰余労働時間の増大にとどまるのか、という問題とまったく重なっている。性別役割分担をめぐる問題の根底には、労働に対する資本の支配という問題が横たわっているのである。


(注1) 伊田広行「家族単位社会が生みだすパート労働問題」、『女性労働研究』第34号、1998年7月伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学』、世界思想社、1998年3月、「5 働く―ジェンダーと労働」。

(注2) 竹中恵美子編『新・女子労働論』、有斐閣、1931年10月、272ページ。袖井孝子「ジェンダーと高齢者ケア」、『女性学研究』第4号、勁草書房、1996年12月

(注3) 消費には生産的消費と個人的消費とがあるが、本稿では「消費」を、生産と対置される個人的消費の意味に限定して用いる。

(注4) 伊田氏は、生産と消費の絶対的区別はできないという(伊田広行『性差別と資本制』、啓文社、1995年、251ページ)。確かにそのとおりである。なぜなら、資本主義では、両過程は実際に分離していると同時に、資本の媒介によって統一されてもいるからである。分離の事実しか見ない態度は一面的である。しかし、資本は、現実の分離を前提にして、分離した両過程を自己の原理で再編成しているのだから、分離自体を事実として認めることが、その統一のあり方を見定める上でも必要なのである。

(注5)生産力の発展の程度を問題にするときには、生産物を生産するのに必要な費用、つまり生産費用の概念が不可欠である。……労働の生産力の上昇・発展とは、同じ量の労働で、より多くの生産物を生産するようになることであり、言い換えれば同じ質と量の生産物をより少ない労働で生産できるようになることであって、ここでの生産のための『費用』とは、まさに労働にほかならない。労働こそ、生産の本源的な費用なのである。」(大谷禎之介「労働を基礎とする社会把握と経済学の課題」、『経済志林』第61巻第1号、1993年7月、87ページ。)「労働の二重性が分かると、さきに述べた生産費用としての労働とはじつは労働力支出としての労働、すなわち抽象的労働にほかならないことが明らかになる。」(同上、93ページ。)

(注6) マルクスは「消費費用」という語を、消費のための貨幣支出・貨幣的コストの意味で用いることもあるが、基本的には人間的諸力の支出の意味で用いている。「誰でも自分の生産的労働または生産的労働の搾取のほかに、生産的でなく部分的には消費費用にはいる多くの機能を果たさなければならないだろう。(本来の生産的労働者は、こうした消費費用を自分で負担し、自分で自分の不生産的労働をしなければならない。)」(18611863草稿』、MEGA, II/3, S.270.)「労働者の賃金がそれに費やされるところの生産的労働またはサーヴィスは、わずかしか残らない。ことに労働者が彼の消費費用を(料理、家の掃除、たいていは修繕さえも)自分で心配する場合にはそうである。」(同上S.181.) 本稿でも、とくに断らないかぎり、「消費費用」とはすべて人間的諸力の支出を意味する。

(注7) 周知のように、マルクスによる生産的労働の規定には、「本源的規定」と資本にとっての生産的労働の規定がある。後者をとれば、資本に包摂された賃労働の形態にあるサーヴィス労働も生産的労働である。しかし資本は、労働を生産的労働として包摂するときに、まずもって「本源的規定」における生産的労働、有体物を生産する労働を包摂することから始めるのであって、資本関係がある程度まで発展してきてはじめて、消費を媒介する労働を包摂するのである。つまり、賃労働の形態にあるサーヴィス労働は、二次的派生的に資本にとっての生産的労働に包摂されるのであって、資本にとって、本源的に生産的な労働ではない。

(注8) 伊田氏は、高橋正立氏の見解に依拠して、家事労働と「生産活動」の無区別性を強調する。だが、「「直接的な必要充足過程」をなす、自分で行わざるをえない活動を「第I類の活動」、その必要を充足する生活手段を生産・獲得する活動で、「直接的充足・享受」する本人以外の者がなしえる家庭の外で行われる(社会的な)活動を「第III類の活動」とし、その中間にあって、炊事・洗濯・掃除・調理など、第I類の活動に場所的にも時間的にも付随・密着しながら、生産・獲得された生活手段(充足手段)を直接的充足・享受するために準備・調整・加工するような、家庭内でなされる活動を「第II類の活動」と分ける」高橋氏の理解は、伊田氏や高橋氏自身の考えに反して、充足されるべき「必要」(=欲求)との関係でいえば、「第II類の活動」が「第I類の活動」と「密着」した位置にあることを示している。伊田氏は、「第II類」と「第III類」との境界の流動性を指摘されるが(伊田、前掲書、253254ページ)、しかし、それを言うなら、「第I類」と「第II類」の境界もまた流動的であろう。

(注9) 本稿では、消費費用としての人間的諸力の支出を他人のために肩代わりする行為を「介助(ケア)」と呼ぶ。

(注10) 生産的労働に特化してきたために家事を遂行することのできない、したがって自立して生活することができない一部の男性労働者も一種の「要介助者」である。「定年離婚」などによってこの事実は露呈する。

(注11) ハイジ・ハートマン「マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚」、リディア・サージェント編『マルクス主義とフェミニズムの不幸な結婚』、勁草書房、1991年1月、5455ページ。

(注12) もちろん、女性労働・児童労働の導入に資本が期待したのは、低賃金、雇用のフレキシビリティなどであって、女性は当初から制限された地位にあった。たとえば、日本については、伊田氏が『性差別と資本制』で、《家族型就業であるため、マッチ職工の賃金は、家計補助的で著しく低額であった。》と指摘している。(p.56)

(注13) 「一般労働者」とは、突き詰めれば青壮年の男性労働者ということになる。ただし、その範囲をあまり固定的に捕らえるべきではない。差別対象の範囲が広がれば、それだけ「一般労働者」の範囲は狭まるし、一時的・部分的なものでしかないが、戦時下の男女格差の縮小のように、逆に「一般労働者」の範囲が広がることもあるからである。

(注14) マルクスは、農業における事例として作業隊制度を挙げている。「女や子供を搾取する範囲が大きくなれば、それがまた男の農村労働者の過剰化とその賃金の抑制とへの新たな手段になる。」(資本論』第I部、MEW, Bd.23, S.722.)「作業隊制度は近年ますます拡大されてきたが、それは明らかに隊の親方のために存在するものではない。それは、大借地農業者かまたは大地主の致富のために存在するものである。借地農業者にとっては、自分の手もとにおく労働人員を正常な水準よりもずっと少なくしておきながら、しかもどんな臨時の仕事のためにもつねに臨時の人手を準備しておき、できるだけわずかな貨幣でできるだけ多くの労働を取り出し、成年男子労働者を『過剰』にするためには、この制度以上に気のきいた方法はないのである。」(同上、S.725.) 後に見るように、このような労働力供給の調整池としての役割や労働者一般の賃金切り下げの手段としての役割は、今日の「パート労働者」にも妥当するものである。

(注15)資本論』第I部、MEW, Bd.23, S.416-440。

(注16)資本論』第I部、MEW, Bd.23, S.416-424。

(注17) アイリス・ヤングは、この点について次のように述べている。「資本制の歴史を通じて、女性はマルクスが労働予備軍として描いた古典的機能を果たしてきた。労働予備軍は、すでに就業している者を移動させることなく、新しい生産分野に動員される労働者の集団、あるいはすべての労働者の賃金や闘争心を低く保つために利用される集団として機能した。資本制の歴史では、新しく拡大する産業に大量の新規労働者が必要となった時はいつでも、それにこたえるのは多くの場合女性であった。」「雇用主は賃金を低く留め、労働者の従順性を維持するために、労働者間の区分を常に誇張する傾向にあった。女性は一貫してその目的のためにつかわれた。資本制の歴史を通して女性は常備のスト破りという役割を担った。工業化の歴史では、資本家は生産過程を機械化しては、男性を女性や子どもで終始置き換えてきた。その後男性の意気や期待が低下すると、男性を再雇用し、女性や子どもを解雇した。」(アイリス・ヤング「不幸な結婚を乗り越えて」、サージェント編、前掲書、100ページ。)

(注18)資本論』第I部、MEW, Bd.23, S.417。

(注19) 浅川雅巳「生活様式論ノートI ──性差別と資本主義的生活様式(角田修一『生活様式の経済学』を中心に)」、『法政大学大学院紀要』第36号、1996年3月、6162ページ。

(注20) この他の選択肢として、売春などのような、セクシャリティやセックスの商品化があった。

(注21) 木本喜美子『家族・ジェンダー・企業社会』、ミネルヴァ書房、1995年、第4章。

(注22) 森岡孝二『企業中心社会の時間構造』、青木書店、1995年1月、3438ページ。

(注23) 元島邦夫『大企業労働者の主体形成』、青木書店、1982年、7172ページ。

(注24) 大沢真理『企業中心社会を超えて』、時事通信社、1993年8月、89ページ。

(注25)商品生産における社会的関係は,交換過程における私的所有の関係としてのみありうるのであり,私的所有は現存の社会システムの社会的承認の形態であり,資本の正当化形態となる。自由な人格は,私的所有者として社会的に承認される。人間の自覚的なあり方は,商品のシステムしたがって資本のシステムによって私的所有者として,客観的な形態を受け取ることになるのである。」(長谷川義和、「マルクスにおける人格の陶冶論」、有井行夫・長島隆編『現代認識とヘーゲル=マルクス』、青木書店、1995年、101ページ。)つまり、賃労働者は、労働力を商品として売ることでのみ、社会的承認を受け取ることができる。

(注26) 藤井治枝氏は、日本における「パート」導入の具体的事例として1960年代の電機産業を取り上げられ、次のように述べられている。「196364年を転機として,家電部門も激しい過当競争と業績不振に陥り,いっそう強力な合理化が必要となると,一方では標準作業量の引き上げや時間管理の徹底などの方法を採用するとともに,他方ではいままでの臨時工よりもさらに効率のよい労働者を新たに開拓することが求められた。そこで,臨時工よりも,いっそう未組織の低賃金労働者で,しかも本工登用への要請がほとんどなく,「権利意識」も一般には希薄で,単なる家計補助者にしかすぎない中高年主婦パートを臨時工に代わる新たな労働力として注目するようになったのはごく当然のなりゆきであった。」(藤井治枝『日本型企業社会と女性労働』、ミネルヴァ書房、1995年、9293ページ。)

(注27) 藤井氏が整理された内容(前掲書、110ページ)から、筆者がとくに重要と考えるものを抜き出してまとめた。

(注28) 労働強度と労働力価値の関係については、『資本論』第I部、MEW, Bd.23, S.547-548を参照。

(注29) 安川寿之輔『女性差別はなぜ存続するのか』、明石書店、1996年、130ページ。同書のなかで安川氏は、技術革新に伴う自動車生産ラインへの女性の配置や女性パイロットの採用などを紹介されている。

(注30) 労働時間の短縮と自由時間の拡大は、一方で、女性の生産的労働への参加をいっそう容易なものにするとともに、他方では、男性労働者の“家事労働”参加の可能性を高める。

(注31) 伊田広行『21世紀労働論』、青木書店、1998年、132136ページ。

(注32) 伊田『性差別と資本制』、196225ページ。

(注33) 伊田『21世紀労働論』、135136ページ。

(注34) 大沢真知子『新しい家族のための経済学』、中央公論社、1998年、第5章。

(注35) このような資本の戦略がすでに実現されているのが、「女性解放先進国」、スウェーデンである。「過去二〇年間に拡張・充実された福祉部門は女性にとって手取り早い就業の機会になったけれど、これらの職種は、典型的な低ステイタス、低賃金が特徴であり、男女平等の観点から就業を考える時、女性にとって構造的な不公平、不平等差別源となっている。」「このような公共部門の拡張は、とりもなおさず住民福祉の充実を意味する。だが、それは同時に低賃金の女性労働者層を増大させ、ますます男女間の差を拡大させることでもある。平等オンブズマンのインガ=ブリット・トゥネルさんは、「生きた人間相手の仕事より死んだ機械相手(工場労働をさし、男性が多く従事している)の方が高い給料を取っている。要するに人間の価値は機械より下というわけね」と言ってのけた。」(塚口レグランド淑子『女たちのスウェーデン』勁草書房、1988年、155ページ。)