第72回(『環境経済学』
第8章,全体のコメント

日時 2000年06月25日(第72回例会)
場所 立教大学
テーマ 『環境経済学への招待』(植田和弘著),第8章

今回は『環境経済学』の中で第8章を検討し,またこのテキストの全体像を振り返った。

先ず,第8章については,国際協調性の必要性を訴え,環境親和的な開発として地域固有財を重視した開発を提案し,制度としてのコモンズの再生を唱道している。報告者は,地域住民による意志決定と国際協調との矛盾を問題にした。

出席者からは,次のような疑問点・論点が提出された。──(1)地域住民の意志決定が何故に環境保護に役立つのかさっぱり解らない。(2)たとえ同じデータに基づいて同じ環境評価を行ったとしても,開発の是非について専門家の意見は正反対に異なり得るのであって,専門家の意見と「客観的に望ましい開発計画」などというおよそナンセンスなものとを等置することはできない。(3)公害地帯の再開発が何故にコモンズ再生を目指さなければならないのか理由が分からない。(4)自然環境と社会環境とは相互に関連し合ってはいるが,区別されなければならないのであって,この区別の必要性が,地域固有財として植田が表象している社会環境の地域依存性(実はこれもまた地域依存ではないのだが)と,その保護には国際協調が必要であるようななものとして植田が表象している自然環境の地域非依存性との,植田における混乱として現れている。

次に,全体像についてはコメンテータは,環境問題が何を提起しているのかということ,環境経済学と政策・運動との関連について次のようなコメントをした。

第一に,環境問題が何を提起しているのかについて。生産関係を度外視して個々の生産場面を見る限りでは,生産は一方で環境を破壊(否定)し,これとは全く別の他方で環境を創造しているかのように見える。従って,当事者たちはこの対立項を固定化させて,環境不適合的なものの否定および環境適合的なものの創造を行おうと試みる。つまり,悪いのは生産力だから,生産力を“制約”しようとするわけである。ところが,既存の生産関係を前提する限りでは,この試みは環境適合的なものの否定および環境不適合的なものの創造に──正反対のものに──転回してしまう。実は,生産は否定かつ創造なのであって,これが現存の生産関係のもとでは環境を破壊してしまうのである。問題は現存の生産関係による生産力の制約からの解放なのであって,生産力の制約ではない。

第二に,環境経済学と政策・運動との関連について。(1)間接規制について。環境は地域・世代を越えて影響を及ぼすから,純粋な私的主体の相互関係による問題解決の限界を暴露し,純粋な私的主体の相互関係による問題解決の道に対して,費用負担という私的原則を通じての社会的管理者と私的主体との和解の道を提示する。しかしまた,後者の道も,私的な費用の原理を社会的費用に押し付けるだけだから,結局のところ,“金が儲かればいくら税・罰金を払ってもいい”という形態で,自己の限界を露呈する。(2)直接規制について。政府が直接規制を行うということは,社会の上に聳え立つ国家が,規制対象である特定の私的主体と結合するということを意味するのであって,決して主体と主体の社会性との和解を意味しない。直接規制もまた,政府の失敗という形態で自己の限界を露呈する。(3)公共福祉論について。国民の権利を守るものとして公共福祉が登場するが,実際には公共福祉が健康破壊を齎し,こうして公共福祉も自己の限界を露呈する。

このコメントに関連して,出席者からは,次のような疑問点・論点が提出された。──(1)環境論は何よりもまず(社会環境論から区別される)自然環境論として論じられるべきである。自然環境問題が先鋭に示しているのは,この問題が地域と世代とを越えている限りでの公共性である。これは実は資本が提示する総ての社会問題は,実はこのような問題なのだが,通常は意識されていない。これに対して,自然環境問題は,上記のような公共性を否が応にも当事者は意識せざるを得ない。こうして,上記のような公共性の暴露を通じて,自然環境問題は総ての社会問題の解決への道を見渡すための一つの窓口を提示している。

(2)費用便益分析を行う際には,存在価値とか遺贈価値とかのような八百長パラメータを用いるべきではない。費用便益分析は,結局のところ,最適汚染水準──これはこれで資本の成長と両立可能な汚染,金儲けと両立可能な汚染に帰着する──と同じ意義を持っているのであって,その限界が弁えられた時に初めて有用である。それは現在の生産関係の下での(金儲けと両立する限りでの)合理的な環境保護のあり方を提示し,それによって現在の生産関係の下でできる限り環境を保全するのに役立つ。しかしまた同時に,これを通じて,それはそのような合理性が狭隘に制限された合理性であるということ,実は非合理性であるということを暴露し,それによってそのような合理性を生み出す枠組み──金儲けの枠組み──自体の変革の必要性を事実上,指し示している。