第64回(『セーフティーネットの政治経済学』
プロローグ,第1〜3章)

日時 1999年11月14日(第64回例会)
場所 立教大学
テーマ 『セーフティネットの政治経済学』(金子勝著),プロローグ,第1〜3章

今回は『セーフティネットの政治経済学』の中で,理論的な部分──プロローグ,第1〜3章──について,検討を加えた。

先ず,プロローグと第1章とについては,次の問題点が報告者から提出された。

奇妙なことに,金子は現在の資本主義的生産の矛盾を,結局のところ,資本主義的生産のせいにするのではなく,新古典派経済学のせいにしている。

ストックデフレの深刻さが強調されているのにも拘わらず,ストックデフレの解決策は本書の中にはない。

バブルの発生は人間の計算能力の限界のせいではなく,資本のせいである。およそ金子には限界が人間的能力にではなく,資本主義的生産にあるという観点が欠如している。

人間的能力に限界がある以上,市場社会が──個人の自由がタテマエであるのに過ぎない社会が──一番マシだということになる。結局のところ,人間的能力の限界から出発する限りでは,どれほど制度の役割を強調しようとも,金子の議論は市場弁護論であるのに過ぎない。

次に,第2,3章については,次の問題点が報告者から提出された。

金子の理論は理論的には全くムチャクチャであり,寧ろ社会的意識形態(イデオロギー)として評価されるべきである。

そもそも,セーフティネットを再構築したからと言って,何故に不況から脱出するということが可能になるのか全く不明である。

制度と市場との二分法に立っているのは金子も同じである。金子にとっては,制度は市場に不可欠なものではあっても,市場の単純否定(絶対に市場ではないもの)であって,市場の(資本の)自己否定的な実現形態ではない。つまり,金子は人格の物象化の形態(市場)と物象の人格化の形態(制度)との分離に着目するが,前者が後者を措定するということには着目しない。金子と新古典派との違いは,ただ制度と市場とが不可分であるということを認めているのかどうかという点にのみある。

金子の議論が“本源的生産要素”の市場化の限界に基づいている限りでは,ポランニーの理論と同じである。従ってまた,同じ欠点をもつ。その同じ欠点というのは,「労働」(人間的自然)の商品化,「土地」(対象的自然)の商品化,「貨幣」(物象化された生産関係)の商品化を同列に置いてしまっているということである。これに対して,現代社会を生み出しているのは賃労働であり,ここから派生する基本的な対立は賃労働と資本との対立であるから,「労働」の商品化と「貨幣」の商品化との同列視はナンセンスである。

ところがまた,金子はポランニーの擬制商品の市場化の限界論を,長期的期待の困難によるリスクシェアに求め,そして長期的期待の困難を資本主義的生産にではなく,人間的能力の限界に求めている。ところが,いまここで人間的能力に制限があるということは言うまでもないが,しかしまた人間的能力は絶えずそれを突破している。金子も資本の歴史に発展があるということ,そしてこの発展によって既存のセーフティネットが陳腐化するということをもちろん認める。しかし,当の歴史的発展はセーフティネットとは無関係である。金子の場合には,セーフティネットは全く以て“この”(個別的)セーフティネットであり,“この”セーフティは全く発展せず,資本の歴史的発展に対して受動的な役割しか演じない。金子の場合には,セーフティネットは──資本の自己否定的形態ではなく──,“資本ならざるもの”であるから,つまり金子は制度と市場とを全く分離してしまっているから,セーフティネットはそれ自体としては不変的・固定的・静態的である。だから,セーフティネットを軽視しているのはほかならない金子である。

金子のセーフティネット論の理論的帰結は,──本人が望むのであろうとあるまいと──,世界革命の拒否どころではなく,鎖国でさえある。これは新古典派批判ではあっても,新古典派を乗り越える原理では決してない。金子のセーフティネット論は新古典派自身の裏面である。