第61回(『明日を支配するもの』,第5,6章)

日時 1999年06月27日(第61回例会)
場所 立教大学
テーマ 『明日を支配するもの』(ドラッカー著),第5,6章

今回は『明日を支配するもの』の第5,6章について,検討を加えた。

第5章では,報告者は特にドラッカーのテーラーに対する評価の問題点の指摘を媒介にして,ドラッカーの天才と大嘘との噴出源である知識労働把握を批判した。──現代資本主義社会では,知識労働が肉体労働から区別されて現れる。しかし,そもそも労働過程一般を見ればわかるように,労働は精神的・肉体的諸力の物理的・生理的・化学的運動を統一する一般的・類的な行為である。現代資本主義において分裂して現れるようになる肉体労働も知識労働も,それらを統一する労働というものの一側面であるのに過ぎない。それ故に,どれほど分裂しようとも,純粋な肉体労働とか,純粋な知識労働とかいうものは実存しない。だからまた,大工業は,一方では肉体労働から知識労働を分離するが,他方で肉体労働そのものを知識労働に鍛え上げずにはいられない(これは完全に矛盾している。賃金労働者は肉体労働者でなければならず,肉体労働者であってはならない)。だからこそ,実際にはドラッカーはテクノロジストという形で自己逃避するのである。テクノロジストこそは肉体労働と知識労働との人格的な統一であるが,結局のところドラッカーはテクノロジストにプロレタリア独裁アメリカの将来を預けてしまっているのである。

さて,肉体労働と知識労働とが同一のものである以上,現実的には,先進国(つまりプロレタリア独裁アメリカ)においては,肉体労働者にとっても知識労働者にとっても「組織」そのものが自立化しているのである。知識社会と組織社会とはドラッカーのような美しい統一を保つのではなく,徹底的に矛盾するのであり,しかも資本主義社会はこの矛盾を暴露するのである。知識労働論はそのような暴露において資本主義的システムの危機論として展開されなければならなかった。

第6章では,報告者は内容要約をせずに,その位置付けを確認するのに留まった。個人に対してお説教するこの章は全く無内容であるが,正に無内容であるということこそがドラッカーの嘘の総決算であり,哀れな破綻形態である。ドラッカーにとっては,既にプロレタリア独裁が実現されてしまっている(従って,システム的な矛盾はもはや実存してはならず,実存するのはただ個別的な問題を社会的に理性的に調整するということだけでなければならない)。しかしまたそれにも拘わらず,この大変革は生産過程の外部から「見えざる革命」として無自覚的に実現された(従って,革命が起こってしまった後で,革命を自覚化させる作業が残ってしまった)。だからこそ,ドラッカーに残っていることは,個別的な主観としての自己がやはり個別的な主観としての他者に対して行うお説教──革命の自覚化のためのお説教──だけである。

その他に,参加者の間で,ドラッカーのナチ批判の当否,ドラッカーの理論的転回の過程,それでもなお残るドラッカーの魅力,ドラッカー理論に取り込まれてしまうということの危険性などが問題になった。